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湯河氏は直春の子光春(勝春)が三千石

湯河氏は直春の子光春(勝春)が三千石を安堵された一方で、山本[105]・貴志・目良・山地玉置氏は没落した。神保・白樫氏ら早期に降った者は所領を安堵されたが、和佐玉置氏は一万石と伝えられる所領のうち、安堵されたのは三千五百石だった[106]。

生き残った熊野の諸将はおおむね堀内氏に統括されたが、色川氏などは堀内氏との因縁からその指揮下に入ることを嫌い[107]、朝鮮出兵の際には藤堂氏の指揮下に入った。

天正19年(1591年)に秀長が没すると、養子の秀保が後を継いだが、文禄4年(1595年)に急死した。以降は紀伊は秀吉の直轄地となり、代官増田長盛が大和郡山から支配を行った。
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紀伊国一揆

豊臣秀長は、一揆勢に対し容赦ない弾圧を加えたこの戦いで紀伊の寺社・国人勢力はほぼ屈服・滅亡させられたが、各地の地侍はその後もしばしば蜂起を繰り返した。守護の支配さえ名目に過ぎなかったのがいきなり豊臣秀長領、次いで秀吉直轄領となり、天正検地や刀狩が行われた。次の浅野氏の統治下でも慶長検地が行われ、地侍たちは財産を削られるだけでなく社会的地位まで否定された。こうした急速な近世的支配に対する反動が土豪一揆という形で噴出した。

天正14年8月、熊野から日高郡山地郷(現田辺市龍神村)にかけての山間部で一揆が起こり、吉川平介らによって鎮圧された。慶長3年(1598年)9月、前月の秀吉の死に乗じて再び日高郡山地郷で一揆が起こり、増田長盛の指揮のもと堀内・杉若氏ら日高・牟婁郡の諸将によって老若男女の別なく撫で斬りにするといった弾圧の末に鎮圧された。

慶長19年(1614年)12月、大坂冬の陣に乗じて奥熊野の地侍・山伏らが蜂起し、新宮城を攻撃した。一揆勢は熊野川で敗退し、浅野勢の奥熊野侵攻によって二十日足らずで鎮圧された(北山一揆)。この一揆で363名が処刑された。翌20年(1615年)4月、大坂夏の陣の勃発に伴い、日高・有田・名草の地侍が浅野長晟が留守の和歌山城を狙って蜂起したが、再度鎮圧された。処刑者は443名に上った。浅野側はこの二回の一揆を紀伊国一揆と称した。
紀伊国一揆の敗北によって、土着勢力の抵抗はようやく終息した。

中世と近世(意義)
紀州攻めはその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世と近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。

「無縁」の否定
比叡山や高野山は寺社の中でも最高級の格を持ち、その中立性と不可侵性は中世を通じて尊重された。またその独立性は、権力者の介入を退けるだけの経済力と軍事力によって裏打ちされたものであった。一度境内に入ってしまえば、外の事情は一切考慮しない、誰でも受け入れる。ゆえに権力者が寺内で権力を振りかざすことも認めない――このような寺社の思想を伊藤正敏は「無縁」と呼ぶ。

織田信長は、寺社の「無縁」性が敵対者の盾となることを嫌った。比叡山に対する浅井・朝倉軍の退去要求、高野山に対する荒木残党引き渡し要求など、信長は敵方の人間を受け入れないよう寺社に対し要求した。これは権力に対する独立・中立性の放棄であり、寺社側が拒否したのも「無縁」の思想からすれば当然のことである。こうして叡山焼き討ち・高野攻めへとつながり、比叡山は滅び高野山は信長の横死によって命拾いした。

羽柴秀吉も、寺社に対する姿勢は信長の態度を受け継いだ。高野山降伏後に秀吉は、謀反人や犯罪者を匿うことを禁止する、受け入れていいのは世捨て人だけだと告げた。天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の存在は許せるものではなかったのである。

一揆と地侍
戦国時代後半の社会は、二つの相反する可能性を示唆していた。一つは信長・秀吉の天下統一事業に代表される、強大な権力者を頂点とする中央集権体制、いわば「タテの支配」である。そしてもう一方に、加賀一向一揆や紀伊雑賀などの惣国一揆を代表とする大名の支配を排した地域自治体制、いわば「ヨコの連帯」があった。両者は相容れないものであり、信長・秀吉が天下統一を達成するためには、どうしてもこれら惣国一揆を屈服させなければならなかった。信長によって加賀一向一揆は潰滅したが、雑賀惣国や根来衆は未だ健在であり、秀吉はこれに対する敵意を隠さなかった。

太田城の開城に伴い死を与えられた者たちは、一揆の主導層である地侍である。続いて行われた検地・刀狩も、その目的には兵農分離、すなわち体制の一部として天下人に従う武士と、単なる被支配者である農民とに国人・地侍を分離し、解体することが含まれていた。抵抗する地侍に対しては、容赦ない弾圧、殺戮が加えられた。その後の武士は、知行地を与えられてもその土地と私的な関係を結ぶことは許されなくなり、惣国一揆が再び芽生えることはなかった。秀吉は自身が任命する領主が領地の隅々まで直接支配を行う体制を目指し、その障害となる住民による地域自治を破壊したのである。

刀狩
寺社勢力や惣国一揆を存立せしめたのは、彼ら独自の軍事力による所が大きい。これらを解体するためには、寺社や地侍、そして農民をも武装解除することが必要だった。秀吉は太田開城時に指導層の地侍を処断する一方、一般農民は退城を許したが、この時農民の武装解除を命じた。この武装解除命令は、後年の全国の刀狩の嚆矢として原刀狩令と呼ばれる。次いで二か月後の天正13年6月、紀州惣国及び高野山に刀狩令が発せられる。武装解除させられた高野山にもはや権力の介入を拒む術はなく、寺社の中立・独立性は否定された。

そして天正16年(1588年)7月8日、全国に刀狩令が発せられた[110]。

海津一朗は「太田の決戦は、中世を象徴する宗教的な民衆武力と、兵農分離の近世秩序が、真正面から戦いあった日本史上のクライマックス」であり、「紀州は「秀吉の平和」、すなわち日本の近世社会の発祥の地であり、それに抵抗した中世終焉の地だったことになる」と述べている[111]。ここに寺社勢力は消滅し、惣国一揆は潰え、圧倒的な武家の軍事力による一元支配の近世が始まる。

^ フロイスは雑賀の住民は全て一向宗徒だとしている(『荘園の世界』上巻P17)が、実際には他宗の信者である住民も多くいた。
^ 『荘園の世界』上巻P9より。
^ 雑賀に関する資料に出てくる「惣国」という言葉について、現在の主流は雑賀五組の結集、すなわち雑賀惣国を指すという解釈である。一方で雑賀衆、根来寺、高野山、粉河寺、湯河氏、熊野衆らが畠山氏を推戴した一国規模の一揆であるという説があるが、現在は否定的に見られている(『戦国鉄砲・傭兵隊』P36)。
^ 紀伊の全水田面積の八、九割が寺社領だったとされる(『寺社勢力の中世』P108)。
^ 応永25年(1418年)、畠山氏は当時熊野本宮領の田辺を押領しようとして反撃を受け敗れた。また長禄4年(1460年)、守護畠山義就は根来寺と粉河寺の紛争に介入して根来衆と戦い、口郡守護代遊佐盛久以下七百人以上を失う敗北を喫した(『和歌山県の歴史』P130-132)。
^ 被官化した国人衆は畠山氏の分国支配には関わらなかったが、軍事動員には応じた(『和歌山県の歴史』P132)。
^ 応永21年(1414年)、高野山は山の入口に立札を立てて、幕府・守護といえども高野山の承認なく山内で警察権を行使することを禁止した(『寺社勢力の中世』P178-179)。
^ 寺社の不可侵性の強弱は、それぞれの寺社の格と実力によって変化した(『寺社勢力の中世』P184)。
^ フランシスコ・ザビエルは日本の主な大学として京都五山、高野山、根来寺、比叡山、園城寺、足利学校を列挙している。(『荘園の世界』上巻P1-5)。
^ この節の記述は、特記するものを除き『寺社勢力の中世』に基づく。
^ 土橋氏は浄土宗門徒であるにもかかわらず真言宗の根来寺に泉識坊を有し、しかも一向一揆にも参加している。
^ フロイスは根来の僧について「絹の着物を着て俗人の兵士のような服装をし、富裕なため両刀には金の飾りをつけ、衣服は俗人と異なる所がなかった。頭髪は背の半ばにまで伸ばして結んだ。また軍事に極めて熟達し、とりわけ弓と鉄砲の訓練に励んだ」と描写する(『寺社勢力の中世』P98及び『信仰と自由に生きる』P321)。
^ 高野山も、行人の「惣分」によって政策が決められている点は根来寺と同様だった(『日本の中世寺院』P123)。
^ 正確には合議制ですらなかった。根来寺内部では多数の会議が乱立して収拾がつかないほどであり、結局は少数の有力行人が決定を左右しており、「首長なし」と表現された(『寺社勢力の中世』P168)。
^ 主に荘園領主や農民に対する金融業の担保や利息として、田地の徴税権など(加地子も参照 )を獲得するという方法で行われた(『信仰と自由に生きる』P336-338)。
^ この場合の「百姓」とは、兵農未分離の有力農民、すなわち地侍を中心とするものである(『秀吉の天下統一戦争』P159)。例として、佐武伊賀守は後に日高郡山地郷で一揆を起こした地侍らを「百姓」と呼んでいる(『戦国鉄砲・傭兵隊』P32)。なおこの時代、「百姓」は農民のみを指す言葉ではなく、多くの非農耕民(商人・工人・海民など)を包含する言葉だった(網野善彦『網野善彦著作集 第十巻』(岩波書店、2007年) ISBN 9784000926508 所収の『海からみた日本社会』より)。
^ 『昔阿波物語』は讃岐十河氏に仕えた二鬼島道智の著作である(『戦国鉄砲・傭兵隊』P31、『戦国合戦大事典』P304)。
^ 両軍の兵力については『戦国鉄砲・傭兵隊』P117より。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』P115-116より。
^ 三組の中にも、組の決定に反して本願寺方に留まる者もいた(『荘園の世界』上巻P277、『戦国合戦大事典』P240)。
^ 『信長公記』では、その他に稲葉一鉄・氏家直昌・不破光治・丹羽氏勝などが参陣したことが記されている(P36、38)。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』P148より。
^ この時の勝利を祝う人々が雑賀荘鎮守関戸矢の宮で踊ったのが起源となり、現在でも和歌浦東照宮の祭礼和歌祭で踊られている雑賀踊りが誕生した。雑賀踊りの特徴である片足での踊りは、鈴木孫一が負傷した足をいたわりながら踊ったことに由来すると言われている(『和歌山・高野山と紀ノ川』P68-69、72)。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』P118より。
^ 信張は天正10年1月には岸和田城主だったとされるが、6月時点では岸和田城主は蜂屋頼隆に交替していたようである。蜂屋頼隆は同年に入ってから和泉一国の支配権を与えられて和泉国人衆を統括することになった(谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書、2005年) ISBN 412101782X P190、P213)。
^ 対立の原因は不明だが、天正9年8月時点で両者に土地を巡る紛争があり、当時鷺森にいた顕如が仲介に入っていた(『戦国合戦大事典』P280)。
^ 泉識坊の門主は土橋氏出身なのが通例で、この泉識坊も土橋氏と推定される(『戦国合戦大事典』P2281)。若大夫の子とする説もある(『荘園の世界』上巻P279)。
^ 『戦国合戦大事典』P258より。
^ 『信長公記』P228による。『戦国合戦大事典』P253では9月30日に京都、安土など三か所で約六百人としている。
^ 高野七口の内訳は、西側に保田口(大門口)と麻生津(おうづ)口、北に学文路(かむろ)口、北東に大和口、東に大峯口、南に龍神口と熊野口とする。
^ たとえば堀秀政について、『高野春秋』では天正9年10月初頭には紀伊に着陣し、また翌10年4月には四国攻めの大将となった織田信孝に代わって総大将になり、6月には退却の指揮も取ったとされているが、『信長公記』では天正9年9月から10月中旬までは伊賀攻めに出陣、翌年3月には武田攻めに従軍、5月下旬には上洛中の徳川家康の接待役を命じられていた。
^ この段落の考察は、特記するものを除き『戦国合戦大事典』P254-255による。
^ 「高野七砦」の配置は以下の通り。
西の脇庵の砦(城将は西方院覚心)……茶臼山城(現紀の川市(旧那賀町))を指す
龍門山雲路の砦(大光明院覚乗)……最も西側にある砦
寺尾壇の砦(医王院正算)
九度山槇の砦(智荘厳院)
雨壺山の砦(橋口隼人重藤)……これも九度山方面
東・茂原薬師砦(花応院快応) 西・西尾山砦(全光院覚応)……学文路方面。東西二砦を合わせて一つと数える
地蔵ヶ峰の砦(三宝院長政)……大和口・吉野大峰方面
(『城郭大系』10巻P451-452より)
^ 『信長公記』には信孝が高野攻めの将になったという記述はない。ただし、『信長公記』では信孝に関する記述は天正9年7月25日(信長から脇差を賜った)以降翌10年5月11日(四国攻めの大将となり、摂津住吉に到着)までなく、同年1月の安土の年賀の席にも名前がない。
^ 『和歌山県史』P643より。
^ 筒井順慶本人が高野攻めに参戦した確証はない。
^ 無量寿院清胤は7月26日付けの上杉景勝宛の書状で、数度の合戦にいずれも高野勢が勝利し、織田勢を山内に入れなかったと述べている(『戦国合戦大事典』P257)。
^ この節の戦闘経過に関する記述は『戦国合戦大事典』P255-258に基づく。
^ 『城郭大系』10巻P466では60,000、『中世終焉』P119では100,000とする。
^ 『ルイス・フロイス イエズス会日本年報』では秀吉軍の死者約一万人、紀州勢の死者15,000人以上としている(『中世終焉』P158)。同じくフロイスの『日本史』ではそれぞれ7,000から8,000人と10,000人以上とする(同P160)
^ 『久遠の祈り』P250より。
^ 『日本史』では根来寺には僧侶だけで八千から一万人がいたと述べ、一方で高野山には三千から四千人の僧侶がいたと記す。この数字に対して複数の解釈がありうるが、小山靖憲は人数そのものでなく両寺の数の比率に着目し、「実態はともかくとして、根来寺には高野山の約二倍の兵力があるとフロイスはみていたのである」と述べている(『荘園の世界』上巻P16)。
^ 秀吉は根来寺に対して、72万石ともいわれる寺領を全て納めるよう要求し(『城郭大系』10巻P459)、改めてわずかな土地(一説に二万石)を与えようと持ちかけたが、根来側に一蹴されて討伐を決意したと伝えられる(『戦国合戦大事典』P299)。
^ 本能寺の変から実際に紀州攻めが行われるまでの三年間に、秀吉は天正10年10月、同11年夏、同12年2月及び10月と計四回根来討伐を計画している(『戦国合戦大事典』P299)。
^ 孫一は後に羽柴秀吉に仕えた。
^ 同年2月、秀吉は賤ヶ岳の戦いに出陣中であったが和泉の地侍を大坂城に集め、尾藤知宣・戸田勝隆を使者として送り紀伊の動向を説明させ、岸和田城に中村一氏を配置することに同意させた(『大阪府史』P37)。
^ 和泉の地侍のうち、おおむね岸和田以北の者は中村一氏に従い、岸和田以南の者は紀州側に加わっている(『大阪府史』P39-40)。
^ 雑賀衆らの秀吉への敵対に、本願寺が関与していないことを示すためと言われる(『荘園の世界』上巻P280)。
^ 当時菅氏は本拠である洲本城を秀吉によって追われ、広(現広川町)に移っていた。広は15世紀後半以降畠山氏の紀伊における本拠であり(『荘園の世界』上巻P9、同下巻P32)、菅氏が広を拠点とすることについては畠山氏との間に何らかの了解があったと考えられる(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。
^ 貞成の父は第一次木津川口の戦いで織田方の水軍の将として戦死した真鍋七五三兵衛貞友とされる(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。
^ 紀州側は建設中の大坂城を焼き払う狙いもあったという(『戦国鉄砲・傭兵隊』P200)。
^ 紀州勢は通過した所をことごとく破壊焼却しつつ、ゆっくりと前進した(『大阪府史』P47)。
^ 『イエズス会日本年報』より(『大阪府史』P46-47)。
^ 岸和田合戦の兵力について。秀吉側の言う所では、この戦いでの岸和田勢の兵力は八千、紀州勢は三万とされている(『城郭大系』12巻P202)。『イエズス会日本年報』では紀州勢を一万五千としている(『大阪府史』P46)。
^ 岸和田合戦の結果について。秀吉は佐竹義重宛の書状で岸和田勢が紀州勢の首五千を討ち取ったと語っている。『日本史』では中村一氏が四千余名を殺したと述べる。『宇野主水日記』では769の首を取り、その他にも討ち捨てた首があちこちにあったと記す(以上『和歌山県史』P647-648より)。 一方で、秀吉の言う通りなら大活躍したはずの中村一氏の伝記『中村一氏記』では、岸和田合戦について何も語っていない。また『真鍋真入斎書付』では一氏がこの戦いの後の行賞で近江水口六万石にとどまったのは、岸和田在城時に働きがよくなかったからだという説がある(『戦国鉄砲・傭兵隊』P201)。
^ これに先立ち、徳川家康は井上正就を根来・雑賀に送って同盟を結び、大坂襲撃を促している(『僧兵の歴史』P285)。とはいえ、紀州勢は家康を助けるためにわざわざ出兵したのではなく、前述の通り根来寺と秀吉の間には元々対立する状況があった(『戦国鉄砲・傭兵隊』P196、199)。
^ 菅達長は香宗我部親泰を通じて長宗我部氏と結んでいた(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。また天正14年9月、雑賀衆と長宗我部氏が合同で軍議を行っており、四国・紀州連合軍による大坂襲撃も計画されている(『戦国鉄砲・傭兵隊』P201)。
^ 同月、秀吉は毛利からの人質である小早川秀包に一万石を与えた上で安芸へ帰国させた。秀包は翌月には岸和田派遣の水軍に加わり出陣してきた(『大阪府史』P55-56)。
^ 『根来破滅因縁』より(『木食応其』P78、190)。
^ うち宇喜多秀家勢が一万二千、蒲生氏郷勢が五千、また鉄砲隊は七千人を数えたという(『和歌山県史』P649-650)。
^ 『イエズス会日本年報』によると午後四時以降(『戦国合戦大事典』P60)。
^ 両軍の兵力と損害については『戦国合戦大事典』P59-61より。
^ 『戦国合戦大事典』P59より。『日本城郭大系』12巻P218では根来左太仁とする。
^ 戦国時代、城は戦争時における領民の避難場所であり、敵軍の侵攻時に非戦闘員多数を含む住民が籠城に加わるのは全国至る所でありふれた光景だった(藤木久志『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995年) ISBN 4022568941 3戦場の村――村の城より)。
^ 『秀吉事記』より(『戦国合戦大事典』P59)。
^ 『イエズス会日本年報』によると、自軍が二度までも撃退され、大きな犠牲を出したのを見た秀吉は、自ら敵の鉄砲の射程内に前進して士気を鼓舞した。
^ 『蒲生軍記』では城兵は千石堀落城の様子を聞いて、戦わずして逃亡したとある。
^ 城将は不明。一説には的場源四郎とも言われる。
^ 千石堀・積善寺・沢城の戦闘に関する記述は『戦国合戦大事典』P55-61より。
^ この節の考察は『戦国鉄砲・傭兵隊』P70、74、197-198、204による。
^ この時根来側の主要兵力は和泉の戦線に出払っていて、寺には戦闘に耐えうる者はほとんどいなかった(『戦国合戦大事典』P300)。残っていた僧侶は逃亡し、無抵抗で制圧されたとする(『城郭大系』12巻P217)。一方で僧兵らが激しく抵抗したという説もある(観光情報 根来の歴史(岩出市HP))。なお、大塔には当時の銃弾の跡が残されている。
^ 『荘園の世界』上巻P281より。
^ 秀吉自身は小早川隆景にあてた書状において、自分の命令で焼き払わせたと述べている(『中世終焉』P142)。また昭和62年(1987年)度に検出された寺内の油倉遺構の調査によると、灯油を貯蔵していた大量の大甕をことごとく逆さにして叩き割った上に倉ごと焼き払われていた痕跡がある。当時灯油の販売は根来寺の収入源の一つであり、秀吉は根来寺が再度巨富を得ることを恐れて油の貯蔵設備を破壊したのではないかと考えられる(『久遠の祈り』P284-285)。
^ 竹中重門は著書『豊鑑』において、申の刻(午後三時から五時頃)突然出火して燃え広がり、秀吉の宿舎にも燃え移ったため秀吉は山の上に避難したと述べている。また根来寺の僧で上方勢来攻直前に高野山に避難した日誉は、『根来破滅因縁』において軍勢が寺内で略奪に夢中になっている間に、昼間のうちにあちこちで火災が起こり、兵士の武具も焼失するような状況だったことを伝聞として記す。ルイス・フロイスは、翌日になれば秀吉が略奪禁止令を出すことを恐れた兵士たちが、夜のうちに放火略奪を行い、その火が燃え広がったために秀吉も宿舎から逃げ出して山の上で夜を明かすことになったと述べる(以上いずれも『戦国合戦大事典』P300-301より)。
^ 根来寺同様、一般的には秀吉による焼き討ちとされている。しかし宇野主水(顕如側近)の日記によると秀吉の軍勢が来る前に少人数が放火して「自滅」したとあるので、粉河寺側による自焼と解するべきという意見(『戦国合戦大事典』P303)もある。
^ 土橋平丞は4月4日、土佐から戻って降伏した。
^ 『貝塚御座所日記』(『宇野主水日記』)より。この知らせは24日昼に鷺森から貝塚に届いた(『中世終焉』P150)。
^ 焼けた地域と焼けなかった地域で、雑賀荘の抗戦派と帰順派のおおよその地域的な色分けができる(『戦国鉄砲・傭兵隊』P205)。
^ 『貝塚御座所日記』より(『中世終焉』P150、原文カタカナ)。
^ 『玉置覚書』では紀州奥郡で秀吉に味方したのは前記の三氏のみだったのに対し、湯河氏に同心して抵抗したのは三十六氏に上ったとする(『高山公実録』P39)。
^ 『玉置覚書』によると玉置勢が湯河氏の所領である小松原(現御坊市)に放火したのを皮切りに、3月21日湯河勢八千と玉置勢千六百が坂の瀬において対戦し、玉置勢は善戦したが83人が討死して敗退し、手取城に籠城した。三日三夜攻防が続いた所に仙石秀久・小西行長が数百艘の兵船と大軍を率いて押し寄せたため、湯河勢は山中に退いた(『高山公実録』P39-40)。一方『田辺市誌』では手取城は落城して玉置直和も殺されたとする(『戦国合戦大事典』P320)。
^ 鳥屋城攻略に当たって、『武徳編年集成』によると白樫氏が攻撃に参加した。また『星田家所蔵文書』によると神保春茂は在城していたが秀吉に内通し、城内の抗戦派を暗殺して開城に導いた。また守城側には根来衆が参加していた(『戦国合戦大事典』P317-318)。根来寺は戦国時代を通じて畠山氏の軍事動員に応じている(久米田の戦い、教興寺の戦い、野田城・福島城の戦いなど参照)。
^ 岩室城の落城日時は不明である。
^ 『戦国合戦大事典』P329より。
^ 根来寺への使者を務めたことから(「和泉の戦い」の項参照)、応其と秀吉の間には紀州攻め実行以前からつながりがあったことが推測される(『木食応其』P190)。
^ 当時、太田城水攻めの最中だった。
^ 天正14年(1586年)7月21日、秀吉は応其の功績を称え、「高野の木食と存ずべからず。木食が高野と存ずべき」と述べたと応其自身は記している。いずれにせよ、この交渉によって秀吉は応其を信任し、重用するようになる(『僧兵の歴史』P289、294及び『木食応其』P175)。
^ 応其の没後は寺領に編入された。
^ 五千人の内訳について、『太田水責記』では「黒田喜内を始として千余人、雑兵児女共に凡五千人(原文カタカナ)」(『中世終焉』P166)、『根来寺焼討太田責細記』では「軍勢五千余騎」(同P172)、『太田城由来并郷士由緒之事』では「黒田喜内を始千余人、其外百姓の妻子共都合五千人」(同P177)とする。秀吉側の史料では『玉置覚書』が「一千人計り」としている(『高山公実録』P39)。
^ 『太田水責記』では小雑賀・中津の二城、『根来寺焼討太田責細記』では雑賀・吹上・中津の三城を挙げている。『イエズス会日本年報』も城名は挙げていないが二城が抵抗し、十四日間(『日本史』では四日間)足止めされたと記している(『戦国鉄砲・傭兵隊』P207)。
^ 当時小雑賀にそれに該当する城はなく、弥勒寺山城のことではないかと推測される(『戦国鉄砲・傭兵隊』P188)。
^ 『中世終焉』所収の北野隆亮『考古学から見た太田城跡』より。太田城跡とされる遺跡からは大量の土器・陶磁器が出土しており、中世を通じて恒常的に生活・消費活動が行われていたと考えられる。また瓦も頻繁に出土しており、寺院を含む相当数の瓦葺き建物が存在したと推測される。
^ フロイスは城内に米二十万俵以上が備蓄されていたと述べている(『中世終焉』p155)。
^ 『戦国合戦大事典』P311より。増田長盛は兵糧奉行として、兵庫・尼崎などから紀伊湊(紀ノ川河口)への兵糧輸送の指揮を執っている(『和歌山県史』P575)。
^ 太田側の資料では、日前宮から白鷺が飛来するや堤が崩れた(『根来寺焼討太田責細記』)、森から現れた蛇が水面を渡り、泳ぎ着いた場所の堤が切れた(『紀伊国名草郡太田総光寺中古縁起』)などと「神威」の様子を表現している(いずれも『中世終焉』史料編所収)。
^ 秀吉は太田城水攻めの様子を彼らに見せることで、間接的に徳川家康に自分の力を見せつけようとしたとも考えられる。
^ 4月5日付の生駒氏宛て書状では「二三日之中」、同13日付丹羽長秀宛て書状では「五三日中」には落とせると書いている(『中世終焉』P143、P145)。
^ 『イエズス会日本年報』より。
^ 磔にされた人数は『中家文書』では23人、『イエズス会日本年報』では18人、『日本史』では28人とする(『戦国合戦大事典』P313、『中世終焉』史料編より)。
^ 『中世終焉』P137及び『荘園の世界』上巻P282より。
^ 『荘園の世界』下巻P152より。
^ この項における考察は、特記するものを除き『中世終焉』所収の弓倉弘年『太田城水攻めの歴史学的考察』に基づく。
^ 『湯川記』などによると、天正14年2月、直春と山本康忠は本領安堵の確認のために大和郡山城に赴いて羽柴秀長に面会した。しかし対面後もそのまま旅館に留め置かれ、7月16日に至って毒殺されたとする(『戦国合戦大事典』P328)。
^ 『渡部家文書』によると直春は秀長によって五千石を安堵されたが、翌14年4月23日に病死したとする。また直春が本当に毒殺されたのなら、湯河一族がその後も豊臣氏や藤堂氏に多数仕えていることの説明がつかない(『戦国合戦大事典』P328-329)。
^ 山本康忠の最期については諸説ある。武家家伝_紀伊山本氏では湯河直春と共に大和郡山で毒殺されたとしている。『紀伊続風土記』『湯川実記』では秀長との会見後浴室で槍に突かれて殺されたとされる(『日本城郭大系』10巻P541)。一方『高山公実録』では藤堂高虎が山本主従253人を山中から誘い出して騙し討ちにしたと述べている(P51-52)。『多門院日記』では山本氏は天正14年9月頃まで抗戦を続けており、その後投降したが11月頃までに処刑されたとする(『戦国合戦大事典』P334-335)。
^ 武家家伝_玉置氏より。これについて、秀長から領地の高を問われた際に旧高で答えたためにその分の知行しか与えられなかったという逸話がある(『戦国合戦大事典』P321)。一方で、天正15年以降の検地によって、名目の知行は同一ながら実質は三分の一に所領を減らされたとも伝えられる(『岩波講座日本通史』11巻P123)。玉置直和は失望して家督を子の永直に譲り、高野山に出家したという。
^ 紀州攻め以前の熊野は、隣接地域への侵攻を繰り返し勢力を拡大する堀内氏に対し、高河原・小山・色川氏らが共同で抵抗するという構図だった。『風雲戦国史』(外部リンク参照)各氏の項より。
^ この節の考察は『寺社勢力の中世』『日本の中世寺院』に基づく。
^ この節の考察は『秀吉の天下統一戦争』『岩波講座日本通史』11巻及び同『第10巻 中世4』(岩波書店、1994年) ISBN 4000105604に基づく。
^ この節の考察は、『秀吉の天下統一戦争』『寺社勢力の中世』に基づく。
^ 『中世終焉』冒頭の海津一朗『「秀吉の平和」と現代』及びP138より。

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2009年01月28日 16:17に投稿されたエントリーのページです。

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