2009年06月29日

中国医学系統の伝統的医学

中医学:中国においては、戦後、国民党政府の伝統医学廃止運動に反発する形で、共産党政権による伝統的医学復興が国策として行なわれ、現在、西洋医学を行なう通常の医師と、伝統医学を行なう「中医師」の二つの医師資格が併設されている。 中華人民共和国成立に伴い、中国共産党は、大陸各地に点在していた伝統医療の担い手を「老中医」と呼んで召集し、伝統医学の教育に充てた。ただし、清末以来戦乱に明けた大陸では、体系立った伝統医学などは残っておらず、老中医にしても、ほとんどが家伝の生薬方なり鍼灸方なりを、各個伝えているだけというのが現状であった。このため、これら個々の伝統技術を統合する理論体系が必要とされ、毛沢東の強い意向を受けて、「中医学」理論が急遽設えられた。つまり、現在の中医学は、中国において統一教科書教育が必要になった1959年を皮切りとし、文化大革命の時期を中心として展開された新しい理論である。
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1958年の南京中医学院が編纂した教科書『中医学概論』では、五臓六腑ごとに病証が展開されており、病証も『千金方』の五臓病証に類似している。この教科書では「肝虚寒証」のように現在の中医学では用いられない病証が含まれる。また『千金方』には「腎実熱」などまで含まれる。

鍼灸を例にすれば、現在の中医理論は経絡治療と似ていて五臓の母子関係や相剋関係を中心に理論構築を展開する。およそ1960年代より、雑病の一つだった「肝気郁逆」(「肝気鬱滯」)が肝の基本病証の一つとなった。また、「肝鬱気滞」が肝実証である、という認識は中国ではあるけれども、日本での認識は乏しく、「肝実証」という発想は、脈診を中心として診断をおこなう経絡治療家にも理解しやすいものである。日中の伝統医学が融合してしまうのではないかと思うが、実はそういった混交した理論はこれまでにも多数存在し、むしろその正統性を柔らかに薄めている。

2009年06月12日

天然に産する広義のアミノ酸の中には

天然に産する広義のアミノ酸の中には、旨み成分や、薬物として作用するもの、そして毒となるものがある。

テアニン ? 茶の旨み成分。
トリコロミン酸 ? ハエトリシメジの旨み成分。
カイニン酸 ? 海人草の薬用成分。
ドウモイ酸 ? 記憶喪失性貝毒の毒成分。
イボテン酸 ? テングタケなどの毒成分。
アクロメリン酸 ? ドクササコの毒成分。

1953年、シカゴ大学のハロルド・ユーリーとスタンリー・ミラーは、アンモニア・メタン・水素の混合ガス(当時原始大気成分と考えられていた)と水の入った容器に電気火花を飛ばす実験を行い、グリシン・アラニン・アスパラギン酸などの各種アミノ酸が生成することを認めた(ユーリー・ミラーの実験)。原始地球において、生命の素材となったアミノ酸が生成した過程の可能性を示した、史上有名な実験である。
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現代の実用的アミノ酸合成 [編集]
いわゆる異常アミノ酸の中にも重要な生理活性を持つものは数多く存在し、また医薬にもD体または非天然型のアミノ酸は数多く使われている。このためアミノ酸の合成(特に不斉合成)は需要が高く、種々の方法が提案されている。

古くから用いられているアミノ酸の合成法としてストレッカー反応がある。アルデヒドとアンモニア・シアン化水素の3成分縮合によってα-アミノニトリルを合成し、この加水分解によりアミノ酸を得るというものである。

他にα-ハロカルボン酸とアミンの反応、グリシンのα位のアルキル化などによる方法も知られている。不斉合成に関しても様々な手法が提案されている(ストレッカー反応の項目なども参照)。

工業的には、微生物を用いたアミノ酸発酵によって大量に合成されている。人工的に突然変異させた微生物株を、炭素源となる糖類や窒素源となる硫酸アンモニウムと共に培養することで、安価に目的のアミノ酸が合成できる。

2009年06月07日

ケブラー(Kevlar)とは、芳香族ポリアミド系

ケブラー(Kevlar)とは、芳香族ポリアミド系樹脂の登録商標である。1965年に開発され、デュポン社によって1970年代初期に商業的に使用され始めた。正式名称はポリパラフェニレンテレフタルアミド。

ケブラーはパラフェニレンジアミンとテレフタル酸クロリドの重合によって得られ、分子構造が剛直で直鎖状の骨格を持つために、高強度・高耐熱性であり、同じ重さの鋼鉄と比べて5倍の強度を持つ。また、ケブラーは結晶性のポリマーであり、一般の有機溶媒に溶けず、溶融もしないために成形が困難なポリマーである。そのため、濃硫酸に溶解することで成形していることも大きな特徴である。

ケブラーの強度は、周囲のポリマー鎖との、カルボニル基と水素間の水素結合や、ベンゼン環のπ結合の部分的な重なりによる。
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ケブラーには、ケブラー、ケブラー29、ケブラー49の3種類があり、ケブラー49は全てのアラミド繊維の中でも最高の引っ張り強度を持つと考えられており、プラスチックの補強、船体、飛行機、自転車、特殊な用途では防刃ベストなどに使用されている。

ケブラーの主な欠点は、アルカリ性条件下、または塩素や紫外線にさらされると分解することである。

2009年04月24日

大千島列島(国後島から占守島まで)

クナシル島…日本名は国後島。北海道とは根室海峡(ロシア名:クナシルスキー海峡)で隔てられている。根室海峡の最狭部は野付水道(ロシア名:イズメナ海峡 Пролив Измены)と呼ぶ。ロシアでは、アイヌ語でクナシルと言い、ロシア人も国際標記もこれに従っている(Остров Кунашир)としている。主な山に爺爺岳(同:チャチャ山 Вулкан Тятя)がある。人口6,622人(2004年1月1日現在、ロシア統計より)。

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イトゥループ島(Остров Итуруп)…日本名は択捉島。国後水道(ロシア名:エカチェリーナ海峡 Пролив Екатерины)を隔てて国後島の北東に並列する。ロシアでは、アイヌ語でイトゥループと言い、ロシア人も国際標記もアイヌ語に従っている(ロシア語:Остров Итуруп)と言われている。島の南部や北部は自然保護区域として地元のロシア人でさえも立入を制限されている。
ウループ島(Остров Уруп)…日本名は得撫島。択捉水道(ロシア名:フリーズ海峡 Пролив Фуриза)を隔てて択捉島と相対する。
ブラット・チェルポエフ島…日本名は知理保以南島。
チェルポイ島…日本名は知理保以島。
ブロウトナ島(Остров Броутона)…日本名は武魯頓島。
シムシル島…日本名は新知島。
ケトイ島…日本名は計吐夷島。
ウシシル島…日本名は宇志知島。
スレドネワ島(Остров Среднего)…日本名は摺手岩(スレドネヴォ島、スリェドニェヴァ島ともいう)。「スレドネヴァ」海峡(日本名は摺手海峡)の中間にある。
ラスシュア島(Остров Расшуа)又はラスシュヤ島(Остров Расшя)…日本名は羅処和島。幌茶登山(ロシア名:ラスシュア山 Вулкан Расшуа)がある。
マトゥア島…日本名は松輪島。
ライコケ島…日本名は雷公計島。北東方約9海里には、間に牟知列岩(ロシア名:ロヴシュキ列岩 Скалы Ловушки)を挟んでシアシュコタン島がある。
シアシュコタン島(Остров Шиашкотан)…日本名は捨子古丹島。黒岳(ロシア名:シナルカ山 Вулкан Синарка)がある。
チリンコタン島…日本名は知林古丹島。
エカルマ島…日本名は越渇磨島。越渇磨海峡(ロシア名:エカルマ海峡 Пролив Экарма)を挟む南東方、約5海里にシアシュコタン島がある。黒岳(ロシア名:シナルカ山 Вулкан Синарка)が座している。
ハリムコタン島(Остров Харимкотан)…日本名は春牟古丹島。捨子古丹島の北東方、捨子古丹海峡(ロシア名セヴェルギナ海峡 Пролив Севергина)を挟んだおよそ16浬にある。春牟古丹岳(ロシア名:セヴェルギナ山 Вулкан Севергина)が座していて、有史以来度々爆発、噴火をみている。
オネコタン島…日本名は温禰古丹島。
マカンルシ島(Остров Маканруши)…日本名は磨勘留島。西方、約11浬にアボスと呼ばれる三角形の裸岩がある。ロシア名アヴォシ岩(скала Авось)。
アンツィフェロヴァ島(Остров Анциферова)…日本名は志林規島。幌筵島南西端の西方、志林規海峡(ロシア名:ルジナ海峡 Пролив Лужина)の沖8浬半に位置する。
パラムシル島(Остров Парамушир)…日本名は幌筵島。南の温禰古丹島とはオンネコタン海峡(ロシア名:第4クリル海峡 (Четвертый Курильский Пролив) )によって隔てられている。千倉岳(ロシア名:チクラチキ山 Вулкан Чикурачки)の標高1,817mをはじめ、後鏃岳(同:フッサ山 Вулкан Фусса)、白煙山(同:カルピンスキー山 Вулкан Карпинского)、千島硫黄山(同:エベコ山 Вулкан Эбеко)など、1000メートル級の山々が座している。
アトラソヴァ島…日本名は阿頼度島。親子場山(ロシア名アライト山 Вулкан Алаид)が聳える。なお、旧ソ連、及びロシアでの呼び名は、18世紀の探検家、ヴラジーミル・ヴァシーリヴィチ・アトラソフの名にちなむ。
シュムシュ島(Остров Шумшу)…日本名は占守島。北のカムチャツカ半島とは千島海峡(ロシア名:第1クリル海峡 (Первый Курильский Пролив) )で、南の幌筵島とはパラムシル海峡(ロシア名:第2クリル海峡(Второй Курильский Пролив))で隔てられている。

2009年04月06日

現代の無調性的な音楽

対位法は、教会旋法の音楽や長調・短調の音楽、さらには現代の無調性的な音楽においても使われてきている。その技法は時代によって変化している部分がある。

無視できない対位法の種類は

教会旋法による中世の音楽の対位法
教会旋法によるルネサンスの音楽の対位法
長調・短調によるバロックの音楽の対位法
主に新ウィーン楽派の十二音技法の音楽における対位法
の四つである。

古典派やロマン派以降の時代に対位法が存在しなかったわけではないが、これらの時代の聴衆の趣味は対位法を理解しない方向へ傾いた。ヨハン・クリスティアン・バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ワーグナー、フォーレなどの作曲家は個別の音楽体験に基づき方法論を探っている。彼らの時代においては、対位法そのものが時代の要求した教義ではなくなっていた。そもそも、フーガという様式がバッハ以後、シマノフスキやヒンデミットらの生きた20世紀に至るまで使われ続けたということは、技法の停滞であるとも言えよう。

現代の音楽における対位法も、トータル・セリエリズムを通過して一種の音響作曲法まで作曲の概念が拡張した為、狭義の「対位法」の枠で作曲するかどうかは作曲家個人の選択に委ねられている。

しかし、前述の中世、ルネサンス、バロックにおける対位法は時代が要求した教義そのものであり、十二音技法における対位法はシェーンベルクを中心としたメンバーが対位法的感覚を教義化したものである。これら四つの教義を無視して対位法を語ることはできない。

教会旋法による音楽の対位法(中世) [編集]
グレゴリオ聖歌の単旋律から離れて、まず最初に作曲家が解決しなければならなかった問題は二つである。まず最初に「旋律に対して旋律をつける際に協和するのかそうでないのか」、「音符がどれくらいのの長さか」を「量る」こと。そして「旋律を終わらせること」であった。前者はオルガヌムの多彩なパターンとして認知され、後者は多数の「終止形」と呼ばれる定型が生まれた。この時期を全て網羅するルネサンス時代に著された教程のようなものは存在せず、時代ごとに作曲家は個別に解決法を探っている。ただ、音符の種類が多くなれば規則の厳格さが意味を成さないこと、「対位法」といった類で論文は出版されず、音符の長さを図る意味で「計量」といった単語が各所で多く用いられていることには留意するべきであろう。

またグレゴリオ聖歌の元の旋律は、かなりの長さで引き伸ばされる場合も多かったが、これらの音符をどのように歌っていたのかは今でも判っていない。その音符のみオルガンで引き伸ばされていた、息が続く限り歌ったとも伝えられるが確証はない。

活版印刷が存在しなかったので、人々は写本の形で音楽を勉強した。ピエール・ブーレーズは中世の対位法の完成者にギョーム・ド・マショーを挙げ、彼の手によって全ての声部の独立性が得られ、なおリズムが可能な限り探られたことをラルース音楽事典で特筆したが、あながち間違いではない。アルス・スブティオル時代には現代で言う「三連符」が発明され盛んに歌われたが、ルネサンスの時代には好ましくないとして破棄される。中世に発案された技法が、全てルネサンスに受け継がれたわけではない。ルネサンス時代は、むしろ中世の時代から技法面において後退しているという見解を示す者も居るが、その者が前述のブーレーズである。

この時代の特徴として、声部の交代が非常に頻繁に行われていてもなんら禁則とは見做されることがなかった。楽譜上は交叉の結果同音を連打しているように聞こえても、音響上は歌手の音色が異なるために新たな線として知覚される。ホケットに関しても同様である。この属性はルネサンス、バロックに至るにつれ禁止されてゆく。

教会旋法による音楽の対位法(ルネサンス) [編集]
教会旋法による音楽の対位法は、声部間の音程の変化が重要な要素である。曲の冒頭から曲尾に向かって、協和音程、不協和音程をバランスよく織り交ぜながら最終的に協和して終わるのである。この中で、いかにそれぞれの声部の旋律が美しく、またいかにそれぞれが独立した旋律であるかが求められる。政治が音楽に積極的に介入したのも大きな特徴で、「歌詞の聞き取れない音楽は書くな」という有名なトレント公会議を始めとして、数々の制約が声楽曲に課された。にもかかわらず、当時の作曲家たちは4-8声で最高の抑揚を得るべく対位法の技術を追求し尽くした。こうして、16世紀は歴史上最も声楽偏重であった時代となった。

ルネサンス期の対位法に関して記された著述は少なからず現存しているが、中でも最も重要なのは、イタリアの音楽家ツァルリーノが残した「和声法教程」(Le Istitutioni Harmoniche 1558年)である。全4巻のうち第3巻が対位法の説明に当てられており、音程、対位法の規則と禁則、定旋律書法、模倣や二重対位法にいたるまで、豊富な譜例を添えて説明されている。2声の対位法が中心に述べられており、3声は追加説明程度、4声以上はアドバイスに留められている。またフーガについても説明されているが、現在の定義とは異なり、「厳格な」フーガ(=今日のカノン)と、「自由な」フーガ(=今日のフーガに近い模倣様式)とに分けられている。なお、この第3巻の最後には、当時若手作曲家が行っていたという半音階や異名同音による理解しがたい記譜法について、強い批判が述べられている。大変な賛否両論を招いたこの教程は、後日改訂増補版が出るほど多くの音楽家に読まれた。この本が、スヴェーリンクによりドイツにもたらされ、北ドイツオルガン音楽は独自の対位法の発展へ繋がる。

ツァルリーノの原著は、2008年現在Arnaldo Forni Editoreから四巻を一冊にまとめた形で出版されている。(全4巻英訳版はかつてイェール大学出版局が全訳していたが、現在は入手困難。)

後代にルネサンス期の技法を検討した理論書として、フックスが1725年に著したGradus ad Parnassum(パルナス山(芸術の山)への階段)が特に有名である。フックスの教程は、本来Gradus ad Parnassum, Sive manuductio ad compositionem musicae regularem, Methodo nova, ac certa, nondum antè tam exacto ordine in lucem editaという長い書名を持ち、原文はラテン語である。この書籍の第二部の練習1-3が、対位法に割かれている。全訳もCNRSから手に入るものの、第二部のみが出版あるいは翻訳されているケースがほとんどである。当時流行した対話形式を用いて書かれている。対位法の実習の際に注意すべき規則が厳しく定められており、その規則に縛られながら課題をこなすことによって、正統的な対位法的感覚を身につけることができるとされる。実際の作曲に用いられるよりも厳しい規則がしかれているため、厳格対位法と呼ばれる。また、対旋律をそのリズムごとに類別して規則を説明しているので類的対位法とも呼ばれる。J.S.バッハの蔵書の中にも含まれ、またベートーヴェンらもこの教程書を使って対位法の勉強をしたと伝えられている。原典に挙げられている範例は、今日では不適当であるとされるものも多く、ルネサンス期の音楽の抑揚まで知るには不十分である。また、パレストリーナの技法をパラダイムとしているものの、フックス自身はバロック時代の人物であり、時代的な制約から免れてはいない。

フックスの原著は、2008年現在CNRS Editionsから1773年に出版されたピエール・ドゥニのフランス語訳が、モニック・ロリンの注釈つきで再版されている。また、éditions mardagaから2000年に出版されたジャン・フィリップ・ナヴァールによる現代フランス語訳も入手できる。

実際のルネサンスの技法を正当に勉強するには、ツァルリーノなどの16世紀に著された教本に頼るしか方法がない。 しかし、フックスに代表される、対旋律をそのリズムに従って分類し実習を進めていく方法は、18世紀以降の常識にも適合しパリ音楽院のメソッドとして採用されたという理由で、以後多数の厳格対位法の教本において踏襲されている。この時代の頂点はパレストリーナの作品であるといわれているが、もちろん彼が唯一の存在ではない。しかしながら旋法対位法を実習する場合、この様式を手本とすることが多い。また、調性和声からの自由な脱却や現代音楽への誘いとしても効果的である。

厳格対位法(類的対位法) [編集]
厳格対位法(類的対位法)は、教会旋法による定旋律(通常2/2拍子で、全て全音符で書かれる)に対し、以下のリズムの音符による対旋律を書くことによって実習される。なお、どの類の対旋律でも曲の結尾は全音符で書かれる。
第一類 1:1(全音符)
第二類 1:2(二分音符)
第三類 1:4(四分音符)
第四類 移勢(弱拍と強拍がタイで結ばれた二分音符)
第五類 華麗(華彩)(第一類?第四類までに用いられたリズム及び特定の新しいリズムを、特定のルールの元に用いる)
混合類 三声以上の場合、例えば定旋律+第二類+第三類といった具合に、異なる類の対旋律を同時に書くことが行われる。これを類の混合という。
大混合類 四声において、定旋律+第二類+第三類+第四類の組み合わせのもの(どの類がどの声部かは任意)は、特に大混合類と呼ばれる。
定旋律をどの声部に置くかは任意である。二声の場合は上声・下声のどちらかであるが、三声以上の場合、内声に置くことも可能である。
実習は八声以内で行われるのが通例(四声+四声の二重合唱曲を書くことが念頭に置かれているため)だが、それ以上の声部を用いても可能である。
後年、パリ音楽院の対位法は長旋法と短旋法のみの実習として扱われた。対位法教程なのに、和音記号が出現するのはそのため。

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2009年03月22日

ポリカーボネート

ポリカーボネート(Polycarbonate)とは、熱可塑性プラスチックの一種。様々な製品の材料として利用されている。

モノマー単位同士の接合部は、すべてカーボネート基(-O-(C=O)-O-)で構成されるため、この名が付けられた。
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ドイツのバイエル社が開発した。ポリカーボ、ポリカ、PCと省略される事もある。

原材料のビスフェノールAが内分泌攪乱化学物質(いわゆる環境ホルモン)として
物性 [編集]
密度:1.20 g/cm3
可用温度: −100 °C to +135 °C
融点:約250 °C
屈折率: 1.585 ± 0.001
光透過率:90% ± 1%
熱伝導率:0.19 W/mk

製法 [編集]
ビスフェノールAとホスゲン(もしくはジフェニルカーボネート)を原料として生産される。塩化カルボニルを用いる場合は、界面重縮合でポリマー化される。また、ジフェニルカーボネートを用いる場合は、エステル交換による重合で合成される。

利点 [編集]
透明性・耐衝撃性・耐熱性・難燃性等において、高い物性を示す。

エンジニアリングプラスチックスの中でも平均して高い物性を示す樹脂であり、かつ透明性をもつために光学用途に使用することもでき、その物性に比べて安価であり、自動車など輸送車両、電気電子、光学、医療機器などに広く用いられている。

最新戦闘機F-22のコクピットにも使われている。

欠点 [編集]
以下のような弱点がある。

薬品耐久性はあまり良いとは言えない。特にアルカリ剤、溶剤では劣化する。接着剤などの使用ができない。
エステル結合を持つ為、高温高湿度の環境下では加水分解する。
引張強度を超える力をかけると、白化して透明度が著しく低下する。

製品例 [編集]
筆記用具・文房具
CDやDVD
光ファイバー
サングラスやメガネ、ゴーグル
哺乳ビンや食器
航空機の窓(旅客機の客室窓など)
機械の油面・液面確認用の窓
家電製品
医療機器
建築材料
盾(主に警察用)
ラジコンカー、ミニ四駆のボディ
双眼鏡
スーツケース
包装用または光学フィルム
液晶テレビ向けバックライト用拡散板
自動車、オートバイ等の輸送機器のウインカーやテールランプ等の各レンズ類
オートバイ用ヘルメットの帽体・バイザー
パーソナルコンピュータの筐体(MacBookなど)
腕時計(HEB MILANOなど)
特殊部隊が使用するヘルメットの防弾バイザー
自動車(主にレーシングカー)の軽量ウィンドウ
鉄道(名鉄2000系)のフロント部分
スロートガード
信号機は、交通用として愛知県や兵庫県の一部で設置された。最新型タイプは分割タイプで西日対策タイプとLEDレンズタイプの2種類でパナソニックと京三などで発売され設置されている地域もある。兵庫県では樹脂製丸型の中古流用が近年では増加しつつある。

その他 [編集]
強度についてのエピソードとして映画『ターミネーター』でアーノルド・シュワルツェネッガーがかけていたサングラスのメーカー、ガーゴイル社では、同製品は散弾銃や.22程度の小口径拳銃であれば撃たれても貫通しない、というのが謳い文句であった。もっとも、散弾銃を使用した場合、12ゲージ00バックショット弾や12ゲージスラッグ弾ではサングラスごと吹き飛ぶ可能性があるので、その銃の口径や装弾の種類に大きく依拠する。また、22口径の拳銃に関しても、殊に".22ショート弾"を使用する拳銃にほぼ限られると考えられる[要出典]。

またサンスター文具はポリカーボネート製の筆入れ「アーム筆入れ」を、「象が踏んでも壊れない」というキャッチコピーのTVCMでその頑丈さをアピールし、一躍有名になった。

2009年03月07日

ローリー (防護巡洋艦)

ローリー (USS Raleigh, C-8) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。艦名はノースカロライナ州ローリーに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
ローリーは1889年12月19日にバージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍工廠で起工する。1892年3月31日にアルフレッド・W・ヘイウッド夫人によって命名、進水し、1894年4月17日に艦長メリル・ミラー大佐の指揮下就役した。
ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

進水後も5ヶ月間作業が行われ、9月初めにローリーはハンプトン・ローズに向かい、続いてチェサピーク湾で整調を行った。1895年1月にロードアイランド州ニューポート沖で艤装が完了し、25日にカリブ海での戦闘訓練のため北大西洋戦隊に合流し出航した。6月にニューヨークに向かい、続いて南へ向けて航海を続けフロリダ半島付近を巡航した。8月に修理のためニューヨークに帰還し、その後部隊と共に作戦活動を再開した。続く10ヶ月間、ローリーは西大西洋での作戦活動に従事し、ニューイングランドからフロリダ海峡までの範囲を巡航した。

1896年の夏、ローリーはサウスカロライナ州とルイジアナ州の海軍民兵を訓練し、その後東海岸に戻って北大西洋戦隊との演習を行った。10月末から1897年2月までフロリダ沖での中立パトロールに従事し、4月にノーフォークでオーバーホールを完了すると、グラント将軍の墓所の献堂式に参加した。

5月6日にローリーは東に向けて出航し、6月11日にエーゲ海のスマーナ(現在のイズミル)にあるヨーロピアン・ステーションに到着した。7月にはモロッコへの親善巡航に参加した。8月にローリーはイタリア沖を巡行し、その後地中海西部に帰還した。12月までレヴァント沖で活動し、同月末にスエズ運河を通過してアジア・ステーションに向かう。1898年2月18日にローリーは香港に到着し、ジョージ・デューイ提督の艦隊に加わった。

4月26日、連邦議会はスペインに宣戦を布告した。27日に戦隊はマニラに向けて出航した。

月末にローリーはエル・フライル島を通過し、敵砲台による砲撃を受ける。ローリーはコンコード (USS Concord, PG-3) 、ボストン (USS Boston) と共に反撃し、続いてスペイン艦隊に攻撃を行うためカヴィテに接近した。

アメリカ艦隊は縦列で航行し、スペイン艦隊に接近すると砲撃を始めた。2時間後、5度の交戦が完了し、スペイン艦隊は撃破された。沿岸砲台は格好の標的となった。5月1日の正午直前にローリーはオリンピア (USS Olympia, C-6) 、ボストン、ペトレル (USS Petrel, PG-2) と合流し、海軍工廠および造兵廠の砲台を沈黙させた。5月2日、コレヒドール島の降伏を要求するためローリーの士官が上陸し、3日には砲台および軍需品を破壊するための部隊が派遣された。午後遅くに同様の目的でパロ・カバロにも部隊が派遣された。その後ローリーは偵察警戒任務を担当し、9日には砲艦カヤオ (Callao) を捕獲した。

7月にローリーはマニラ湾からスービック湾へ移動した。7日にグランデ島に砲撃を行い、スペイン軍部隊が降伏するまで砲撃を継続した。その後守備隊を上陸させた。10日にローリーはマニラに帰還し、その後スペイン軍が8月半ばに降伏するまで同地に留まった。

2009年02月18日

アンテナ

アンテナ(antenna:昆虫などの触角の意、aerial:空中線とも)は、高周波エネルギーを電波(電磁波)として空間に放射(送信)、あるいは逆に空間の電波(電磁波)を高周波エネルギーへ相互に変換(受信)する装置のことである。
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ダイポールアンテナ
逆V型アンテナ
U型アドコックアンテナ
エクスパンディッド・クワッド
スクエアローアンテナ
折返しダイポールアンテナ
T2FD
広帯域ダイポールアンテナ
対数周期アンテナ(ログペリオディックアンテナ、LPDA)
ファンアンテナ
コニカルアンテナ
ディスコーンアンテナ
AWXアンテナ
八木・宇田アンテナ(八木アンテナ)
GIP八木
パラスタックアンテナ
単線給電アンテナ
ツェップアンテナ(エンドフェッドアンテナ)
ウインドム・アンテナ
G5RV
ループアンテナ
スケルトン・スロット
ヘンテナ
双ループアンテナ
(キュビカル)クワッドアンテナ
5Aスペシャルアンテナ
DDRR(Directional Discontinuity Ring Radiator)
位相差給電アンテナ
HB9CV
スイス・クワッド
ZLスペシャル
アレイアンテナ
フェイズドアレイアンテナ
アダプティブアレイアンテナ
Lazy-Hアンテナ
バードケージアンテナ
ツイギー・ビーム
8JKビーム・アンテナ(フラットトップアンテナ)
接地アンテナ
モノポールアンテナ
ロングワイヤーアンテナ
逆L型アンテナ
逆F型アンテナ(線状)
ホイップアンテナ
5/8λアンテナ
非接地型垂直アンテナ
ブラウンアンテナ(グラウンドプレーンアンテナ)
スリーブアンテナ
コーリニヤ(コーリニア、コリニア)アレイアンテナ
ヘリカルアンテナ
バイコニカルアンテナ
1/2λアンテナ
J型アンテナ
スリムジムアンテナ
ビームアンテナ
広帯域ビームアンテナ
水平偏波全方向性アンテナ
ターンスタイルアンテナ
折返しターンスタイルアンテナ
多段ターンスタイルアンテナ
スーパーターンスタイルアンテナ
スーパーゲインアンテナ
EWEアンテナ
コーナーアンテナ
くし形アンテナ

平面アンテナ
マイクロストリップアンテナ(パッチアンテナ)
板状逆Fアンテナ(PIFA)

立体アンテナ

パラボラアンテナ
地上波用のパラボラアンテナスロットアンテナ
パラボラアンテナ
ホーンアンテナ
ホーンリフレクタアンテナ
カセグレンアンテナ

進行波アンテナ
ビバレージアンテナ
ロンビックアンテナ

EHアンテナ
スター型EHアンテナ
ブリッジ型EHアンテナ

磁界アンテナ
バーアンテナ
微小ループアンテナ

誘電体アンテナ
誘電体アンテナ

その他
レクテナ

給電方式
アンテナと給電線とを接続する点を給電点という。給電点の電流と電圧の関係により、次のように分類できる。

電流給電
給電点において電流が最大で電圧が最小となる給電方式。例) 1/2波長ダイポール・アンテナ
電圧給電
給電点において電圧が最大で電流が最小となる給電方式。例) 1波長ダイポール・アンテナ

接地
接地(アース)を必要とするアンテナでは、大地に直接接続して接地するのが基本である。ただし、この場合アンテナの地上高は0mになる。地上高を高くするために、大地の代わりに波長に対して十分長い導線を四方八方に複数、水平に張ることで、電気的に接地型アンテナと同じにできる。この導線をラジアルと言う。ラジアルは1/4波長まで短くできるが、その場合は指向性が上向きになる。また、ラジアルの本数が1本の場合は、もはや接地アンテナとは言えない。砂地や岩の多い大地では十分に接地抵抗を低くできない。そこで大地に平行に導線を展張することがある。これをカウンターポイズ(counterpoise)と言い、大地との間にコンデンサを形成させることで、高周波的に接地と同じ効果を狙ったものである。

利得
指向性を持つアンテナにおいては、放射が最大となる放射角におけるエネルギーの強さをアンテナの利得(ゲイン)としてデシベル(dB)で表す。表記には2通りあり、半波長ダイポールアンテナを基準とするdBまたはdBd表記と、全ての方向に均等に電波を放射する仮想的な等方向性(アイソトロピック)アンテナを基準とするdBi表記がある。dBi表記はdBd表記より2.14dB大きな値となるため、利得の比較には注意が必要である。

指向性
電波の放射方向と放射強度との関係を指向性という。指向性は放射角と放射強度の関係をレーダーチャートにした図で表される。ダイポールアンテナは2つの円を並べた『8の字特性』、ブラウンアンテナ(垂直面内)は2つの半円を並べた特性となる。ブラウンアンテナ(水平面内)のように特定の面では360°均等に電波が放射される無指向性のアンテナもある。

利得の大きなアンテナほど指向性は鋭く、特定の方向へ強く電波を放射する。指向性は高周波電流を電波に変換する場合(送信)とも、電波を高周波電流に変換する場合(受信)でも同じ特性となる。八木・宇田アンテナなど鋭い指向性を持つアンテナでは、放射が最大となる方向(メインローブ)と逆方向の利得(F/B比)や、それに直交する方向(サイドローブ)の利得(F/S比)も性能を示す重要な指標である。

2009年01月28日

湯河氏は直春の子光春(勝春)が三千石

湯河氏は直春の子光春(勝春)が三千石を安堵された一方で、山本[105]・貴志・目良・山地玉置氏は没落した。神保・白樫氏ら早期に降った者は所領を安堵されたが、和佐玉置氏は一万石と伝えられる所領のうち、安堵されたのは三千五百石だった[106]。

生き残った熊野の諸将はおおむね堀内氏に統括されたが、色川氏などは堀内氏との因縁からその指揮下に入ることを嫌い[107]、朝鮮出兵の際には藤堂氏の指揮下に入った。

天正19年(1591年)に秀長が没すると、養子の秀保が後を継いだが、文禄4年(1595年)に急死した。以降は紀伊は秀吉の直轄地となり、代官増田長盛が大和郡山から支配を行った。
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紀伊国一揆

豊臣秀長は、一揆勢に対し容赦ない弾圧を加えたこの戦いで紀伊の寺社・国人勢力はほぼ屈服・滅亡させられたが、各地の地侍はその後もしばしば蜂起を繰り返した。守護の支配さえ名目に過ぎなかったのがいきなり豊臣秀長領、次いで秀吉直轄領となり、天正検地や刀狩が行われた。次の浅野氏の統治下でも慶長検地が行われ、地侍たちは財産を削られるだけでなく社会的地位まで否定された。こうした急速な近世的支配に対する反動が土豪一揆という形で噴出した。

天正14年8月、熊野から日高郡山地郷(現田辺市龍神村)にかけての山間部で一揆が起こり、吉川平介らによって鎮圧された。慶長3年(1598年)9月、前月の秀吉の死に乗じて再び日高郡山地郷で一揆が起こり、増田長盛の指揮のもと堀内・杉若氏ら日高・牟婁郡の諸将によって老若男女の別なく撫で斬りにするといった弾圧の末に鎮圧された。

慶長19年(1614年)12月、大坂冬の陣に乗じて奥熊野の地侍・山伏らが蜂起し、新宮城を攻撃した。一揆勢は熊野川で敗退し、浅野勢の奥熊野侵攻によって二十日足らずで鎮圧された(北山一揆)。この一揆で363名が処刑された。翌20年(1615年)4月、大坂夏の陣の勃発に伴い、日高・有田・名草の地侍が浅野長晟が留守の和歌山城を狙って蜂起したが、再度鎮圧された。処刑者は443名に上った。浅野側はこの二回の一揆を紀伊国一揆と称した。
紀伊国一揆の敗北によって、土着勢力の抵抗はようやく終息した。

中世と近世(意義)
紀州攻めはその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世と近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。

「無縁」の否定
比叡山や高野山は寺社の中でも最高級の格を持ち、その中立性と不可侵性は中世を通じて尊重された。またその独立性は、権力者の介入を退けるだけの経済力と軍事力によって裏打ちされたものであった。一度境内に入ってしまえば、外の事情は一切考慮しない、誰でも受け入れる。ゆえに権力者が寺内で権力を振りかざすことも認めない――このような寺社の思想を伊藤正敏は「無縁」と呼ぶ。

織田信長は、寺社の「無縁」性が敵対者の盾となることを嫌った。比叡山に対する浅井・朝倉軍の退去要求、高野山に対する荒木残党引き渡し要求など、信長は敵方の人間を受け入れないよう寺社に対し要求した。これは権力に対する独立・中立性の放棄であり、寺社側が拒否したのも「無縁」の思想からすれば当然のことである。こうして叡山焼き討ち・高野攻めへとつながり、比叡山は滅び高野山は信長の横死によって命拾いした。

羽柴秀吉も、寺社に対する姿勢は信長の態度を受け継いだ。高野山降伏後に秀吉は、謀反人や犯罪者を匿うことを禁止する、受け入れていいのは世捨て人だけだと告げた。天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の存在は許せるものではなかったのである。

一揆と地侍
戦国時代後半の社会は、二つの相反する可能性を示唆していた。一つは信長・秀吉の天下統一事業に代表される、強大な権力者を頂点とする中央集権体制、いわば「タテの支配」である。そしてもう一方に、加賀一向一揆や紀伊雑賀などの惣国一揆を代表とする大名の支配を排した地域自治体制、いわば「ヨコの連帯」があった。両者は相容れないものであり、信長・秀吉が天下統一を達成するためには、どうしてもこれら惣国一揆を屈服させなければならなかった。信長によって加賀一向一揆は潰滅したが、雑賀惣国や根来衆は未だ健在であり、秀吉はこれに対する敵意を隠さなかった。

太田城の開城に伴い死を与えられた者たちは、一揆の主導層である地侍である。続いて行われた検地・刀狩も、その目的には兵農分離、すなわち体制の一部として天下人に従う武士と、単なる被支配者である農民とに国人・地侍を分離し、解体することが含まれていた。抵抗する地侍に対しては、容赦ない弾圧、殺戮が加えられた。その後の武士は、知行地を与えられてもその土地と私的な関係を結ぶことは許されなくなり、惣国一揆が再び芽生えることはなかった。秀吉は自身が任命する領主が領地の隅々まで直接支配を行う体制を目指し、その障害となる住民による地域自治を破壊したのである。

刀狩
寺社勢力や惣国一揆を存立せしめたのは、彼ら独自の軍事力による所が大きい。これらを解体するためには、寺社や地侍、そして農民をも武装解除することが必要だった。秀吉は太田開城時に指導層の地侍を処断する一方、一般農民は退城を許したが、この時農民の武装解除を命じた。この武装解除命令は、後年の全国の刀狩の嚆矢として原刀狩令と呼ばれる。次いで二か月後の天正13年6月、紀州惣国及び高野山に刀狩令が発せられる。武装解除させられた高野山にもはや権力の介入を拒む術はなく、寺社の中立・独立性は否定された。

そして天正16年(1588年)7月8日、全国に刀狩令が発せられた[110]。

海津一朗は「太田の決戦は、中世を象徴する宗教的な民衆武力と、兵農分離の近世秩序が、真正面から戦いあった日本史上のクライマックス」であり、「紀州は「秀吉の平和」、すなわち日本の近世社会の発祥の地であり、それに抵抗した中世終焉の地だったことになる」と述べている[111]。ここに寺社勢力は消滅し、惣国一揆は潰え、圧倒的な武家の軍事力による一元支配の近世が始まる。

^ フロイスは雑賀の住民は全て一向宗徒だとしている(『荘園の世界』上巻P17)が、実際には他宗の信者である住民も多くいた。
^ 『荘園の世界』上巻P9より。
^ 雑賀に関する資料に出てくる「惣国」という言葉について、現在の主流は雑賀五組の結集、すなわち雑賀惣国を指すという解釈である。一方で雑賀衆、根来寺、高野山、粉河寺、湯河氏、熊野衆らが畠山氏を推戴した一国規模の一揆であるという説があるが、現在は否定的に見られている(『戦国鉄砲・傭兵隊』P36)。
^ 紀伊の全水田面積の八、九割が寺社領だったとされる(『寺社勢力の中世』P108)。
^ 応永25年(1418年)、畠山氏は当時熊野本宮領の田辺を押領しようとして反撃を受け敗れた。また長禄4年(1460年)、守護畠山義就は根来寺と粉河寺の紛争に介入して根来衆と戦い、口郡守護代遊佐盛久以下七百人以上を失う敗北を喫した(『和歌山県の歴史』P130-132)。
^ 被官化した国人衆は畠山氏の分国支配には関わらなかったが、軍事動員には応じた(『和歌山県の歴史』P132)。
^ 応永21年(1414年)、高野山は山の入口に立札を立てて、幕府・守護といえども高野山の承認なく山内で警察権を行使することを禁止した(『寺社勢力の中世』P178-179)。
^ 寺社の不可侵性の強弱は、それぞれの寺社の格と実力によって変化した(『寺社勢力の中世』P184)。
^ フランシスコ・ザビエルは日本の主な大学として京都五山、高野山、根来寺、比叡山、園城寺、足利学校を列挙している。(『荘園の世界』上巻P1-5)。
^ この節の記述は、特記するものを除き『寺社勢力の中世』に基づく。
^ 土橋氏は浄土宗門徒であるにもかかわらず真言宗の根来寺に泉識坊を有し、しかも一向一揆にも参加している。
^ フロイスは根来の僧について「絹の着物を着て俗人の兵士のような服装をし、富裕なため両刀には金の飾りをつけ、衣服は俗人と異なる所がなかった。頭髪は背の半ばにまで伸ばして結んだ。また軍事に極めて熟達し、とりわけ弓と鉄砲の訓練に励んだ」と描写する(『寺社勢力の中世』P98及び『信仰と自由に生きる』P321)。
^ 高野山も、行人の「惣分」によって政策が決められている点は根来寺と同様だった(『日本の中世寺院』P123)。
^ 正確には合議制ですらなかった。根来寺内部では多数の会議が乱立して収拾がつかないほどであり、結局は少数の有力行人が決定を左右しており、「首長なし」と表現された(『寺社勢力の中世』P168)。
^ 主に荘園領主や農民に対する金融業の担保や利息として、田地の徴税権など(加地子も参照 )を獲得するという方法で行われた(『信仰と自由に生きる』P336-338)。
^ この場合の「百姓」とは、兵農未分離の有力農民、すなわち地侍を中心とするものである(『秀吉の天下統一戦争』P159)。例として、佐武伊賀守は後に日高郡山地郷で一揆を起こした地侍らを「百姓」と呼んでいる(『戦国鉄砲・傭兵隊』P32)。なおこの時代、「百姓」は農民のみを指す言葉ではなく、多くの非農耕民(商人・工人・海民など)を包含する言葉だった(網野善彦『網野善彦著作集 第十巻』(岩波書店、2007年) ISBN 9784000926508 所収の『海からみた日本社会』より)。
^ 『昔阿波物語』は讃岐十河氏に仕えた二鬼島道智の著作である(『戦国鉄砲・傭兵隊』P31、『戦国合戦大事典』P304)。
^ 両軍の兵力については『戦国鉄砲・傭兵隊』P117より。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』P115-116より。
^ 三組の中にも、組の決定に反して本願寺方に留まる者もいた(『荘園の世界』上巻P277、『戦国合戦大事典』P240)。
^ 『信長公記』では、その他に稲葉一鉄・氏家直昌・不破光治・丹羽氏勝などが参陣したことが記されている(P36、38)。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』P148より。
^ この時の勝利を祝う人々が雑賀荘鎮守関戸矢の宮で踊ったのが起源となり、現在でも和歌浦東照宮の祭礼和歌祭で踊られている雑賀踊りが誕生した。雑賀踊りの特徴である片足での踊りは、鈴木孫一が負傷した足をいたわりながら踊ったことに由来すると言われている(『和歌山・高野山と紀ノ川』P68-69、72)。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』P118より。
^ 信張は天正10年1月には岸和田城主だったとされるが、6月時点では岸和田城主は蜂屋頼隆に交替していたようである。蜂屋頼隆は同年に入ってから和泉一国の支配権を与えられて和泉国人衆を統括することになった(谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書、2005年) ISBN 412101782X P190、P213)。
^ 対立の原因は不明だが、天正9年8月時点で両者に土地を巡る紛争があり、当時鷺森にいた顕如が仲介に入っていた(『戦国合戦大事典』P280)。
^ 泉識坊の門主は土橋氏出身なのが通例で、この泉識坊も土橋氏と推定される(『戦国合戦大事典』P2281)。若大夫の子とする説もある(『荘園の世界』上巻P279)。
^ 『戦国合戦大事典』P258より。
^ 『信長公記』P228による。『戦国合戦大事典』P253では9月30日に京都、安土など三か所で約六百人としている。
^ 高野七口の内訳は、西側に保田口(大門口)と麻生津(おうづ)口、北に学文路(かむろ)口、北東に大和口、東に大峯口、南に龍神口と熊野口とする。
^ たとえば堀秀政について、『高野春秋』では天正9年10月初頭には紀伊に着陣し、また翌10年4月には四国攻めの大将となった織田信孝に代わって総大将になり、6月には退却の指揮も取ったとされているが、『信長公記』では天正9年9月から10月中旬までは伊賀攻めに出陣、翌年3月には武田攻めに従軍、5月下旬には上洛中の徳川家康の接待役を命じられていた。
^ この段落の考察は、特記するものを除き『戦国合戦大事典』P254-255による。
^ 「高野七砦」の配置は以下の通り。
西の脇庵の砦(城将は西方院覚心)……茶臼山城(現紀の川市(旧那賀町))を指す
龍門山雲路の砦(大光明院覚乗)……最も西側にある砦
寺尾壇の砦(医王院正算)
九度山槇の砦(智荘厳院)
雨壺山の砦(橋口隼人重藤)……これも九度山方面
東・茂原薬師砦(花応院快応) 西・西尾山砦(全光院覚応)……学文路方面。東西二砦を合わせて一つと数える
地蔵ヶ峰の砦(三宝院長政)……大和口・吉野大峰方面
(『城郭大系』10巻P451-452より)
^ 『信長公記』には信孝が高野攻めの将になったという記述はない。ただし、『信長公記』では信孝に関する記述は天正9年7月25日(信長から脇差を賜った)以降翌10年5月11日(四国攻めの大将となり、摂津住吉に到着)までなく、同年1月の安土の年賀の席にも名前がない。
^ 『和歌山県史』P643より。
^ 筒井順慶本人が高野攻めに参戦した確証はない。
^ 無量寿院清胤は7月26日付けの上杉景勝宛の書状で、数度の合戦にいずれも高野勢が勝利し、織田勢を山内に入れなかったと述べている(『戦国合戦大事典』P257)。
^ この節の戦闘経過に関する記述は『戦国合戦大事典』P255-258に基づく。
^ 『城郭大系』10巻P466では60,000、『中世終焉』P119では100,000とする。
^ 『ルイス・フロイス イエズス会日本年報』では秀吉軍の死者約一万人、紀州勢の死者15,000人以上としている(『中世終焉』P158)。同じくフロイスの『日本史』ではそれぞれ7,000から8,000人と10,000人以上とする(同P160)
^ 『久遠の祈り』P250より。
^ 『日本史』では根来寺には僧侶だけで八千から一万人がいたと述べ、一方で高野山には三千から四千人の僧侶がいたと記す。この数字に対して複数の解釈がありうるが、小山靖憲は人数そのものでなく両寺の数の比率に着目し、「実態はともかくとして、根来寺には高野山の約二倍の兵力があるとフロイスはみていたのである」と述べている(『荘園の世界』上巻P16)。
^ 秀吉は根来寺に対して、72万石ともいわれる寺領を全て納めるよう要求し(『城郭大系』10巻P459)、改めてわずかな土地(一説に二万石)を与えようと持ちかけたが、根来側に一蹴されて討伐を決意したと伝えられる(『戦国合戦大事典』P299)。
^ 本能寺の変から実際に紀州攻めが行われるまでの三年間に、秀吉は天正10年10月、同11年夏、同12年2月及び10月と計四回根来討伐を計画している(『戦国合戦大事典』P299)。
^ 孫一は後に羽柴秀吉に仕えた。
^ 同年2月、秀吉は賤ヶ岳の戦いに出陣中であったが和泉の地侍を大坂城に集め、尾藤知宣・戸田勝隆を使者として送り紀伊の動向を説明させ、岸和田城に中村一氏を配置することに同意させた(『大阪府史』P37)。
^ 和泉の地侍のうち、おおむね岸和田以北の者は中村一氏に従い、岸和田以南の者は紀州側に加わっている(『大阪府史』P39-40)。
^ 雑賀衆らの秀吉への敵対に、本願寺が関与していないことを示すためと言われる(『荘園の世界』上巻P280)。
^ 当時菅氏は本拠である洲本城を秀吉によって追われ、広(現広川町)に移っていた。広は15世紀後半以降畠山氏の紀伊における本拠であり(『荘園の世界』上巻P9、同下巻P32)、菅氏が広を拠点とすることについては畠山氏との間に何らかの了解があったと考えられる(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。
^ 貞成の父は第一次木津川口の戦いで織田方の水軍の将として戦死した真鍋七五三兵衛貞友とされる(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。
^ 紀州側は建設中の大坂城を焼き払う狙いもあったという(『戦国鉄砲・傭兵隊』P200)。
^ 紀州勢は通過した所をことごとく破壊焼却しつつ、ゆっくりと前進した(『大阪府史』P47)。
^ 『イエズス会日本年報』より(『大阪府史』P46-47)。
^ 岸和田合戦の兵力について。秀吉側の言う所では、この戦いでの岸和田勢の兵力は八千、紀州勢は三万とされている(『城郭大系』12巻P202)。『イエズス会日本年報』では紀州勢を一万五千としている(『大阪府史』P46)。
^ 岸和田合戦の結果について。秀吉は佐竹義重宛の書状で岸和田勢が紀州勢の首五千を討ち取ったと語っている。『日本史』では中村一氏が四千余名を殺したと述べる。『宇野主水日記』では769の首を取り、その他にも討ち捨てた首があちこちにあったと記す(以上『和歌山県史』P647-648より)。 一方で、秀吉の言う通りなら大活躍したはずの中村一氏の伝記『中村一氏記』では、岸和田合戦について何も語っていない。また『真鍋真入斎書付』では一氏がこの戦いの後の行賞で近江水口六万石にとどまったのは、岸和田在城時に働きがよくなかったからだという説がある(『戦国鉄砲・傭兵隊』P201)。
^ これに先立ち、徳川家康は井上正就を根来・雑賀に送って同盟を結び、大坂襲撃を促している(『僧兵の歴史』P285)。とはいえ、紀州勢は家康を助けるためにわざわざ出兵したのではなく、前述の通り根来寺と秀吉の間には元々対立する状況があった(『戦国鉄砲・傭兵隊』P196、199)。
^ 菅達長は香宗我部親泰を通じて長宗我部氏と結んでいた(六章、十六世紀末の淡路水軍・菅氏と豊臣秀吉)。また天正14年9月、雑賀衆と長宗我部氏が合同で軍議を行っており、四国・紀州連合軍による大坂襲撃も計画されている(『戦国鉄砲・傭兵隊』P201)。
^ 同月、秀吉は毛利からの人質である小早川秀包に一万石を与えた上で安芸へ帰国させた。秀包は翌月には岸和田派遣の水軍に加わり出陣してきた(『大阪府史』P55-56)。
^ 『根来破滅因縁』より(『木食応其』P78、190)。
^ うち宇喜多秀家勢が一万二千、蒲生氏郷勢が五千、また鉄砲隊は七千人を数えたという(『和歌山県史』P649-650)。
^ 『イエズス会日本年報』によると午後四時以降(『戦国合戦大事典』P60)。
^ 両軍の兵力と損害については『戦国合戦大事典』P59-61より。
^ 『戦国合戦大事典』P59より。『日本城郭大系』12巻P218では根来左太仁とする。
^ 戦国時代、城は戦争時における領民の避難場所であり、敵軍の侵攻時に非戦闘員多数を含む住民が籠城に加わるのは全国至る所でありふれた光景だった(藤木久志『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995年) ISBN 4022568941 3戦場の村――村の城より)。
^ 『秀吉事記』より(『戦国合戦大事典』P59)。
^ 『イエズス会日本年報』によると、自軍が二度までも撃退され、大きな犠牲を出したのを見た秀吉は、自ら敵の鉄砲の射程内に前進して士気を鼓舞した。
^ 『蒲生軍記』では城兵は千石堀落城の様子を聞いて、戦わずして逃亡したとある。
^ 城将は不明。一説には的場源四郎とも言われる。
^ 千石堀・積善寺・沢城の戦闘に関する記述は『戦国合戦大事典』P55-61より。
^ この節の考察は『戦国鉄砲・傭兵隊』P70、74、197-198、204による。
^ この時根来側の主要兵力は和泉の戦線に出払っていて、寺には戦闘に耐えうる者はほとんどいなかった(『戦国合戦大事典』P300)。残っていた僧侶は逃亡し、無抵抗で制圧されたとする(『城郭大系』12巻P217)。一方で僧兵らが激しく抵抗したという説もある(観光情報 根来の歴史(岩出市HP))。なお、大塔には当時の銃弾の跡が残されている。
^ 『荘園の世界』上巻P281より。
^ 秀吉自身は小早川隆景にあてた書状において、自分の命令で焼き払わせたと述べている(『中世終焉』P142)。また昭和62年(1987年)度に検出された寺内の油倉遺構の調査によると、灯油を貯蔵していた大量の大甕をことごとく逆さにして叩き割った上に倉ごと焼き払われていた痕跡がある。当時灯油の販売は根来寺の収入源の一つであり、秀吉は根来寺が再度巨富を得ることを恐れて油の貯蔵設備を破壊したのではないかと考えられる(『久遠の祈り』P284-285)。
^ 竹中重門は著書『豊鑑』において、申の刻(午後三時から五時頃)突然出火して燃え広がり、秀吉の宿舎にも燃え移ったため秀吉は山の上に避難したと述べている。また根来寺の僧で上方勢来攻直前に高野山に避難した日誉は、『根来破滅因縁』において軍勢が寺内で略奪に夢中になっている間に、昼間のうちにあちこちで火災が起こり、兵士の武具も焼失するような状況だったことを伝聞として記す。ルイス・フロイスは、翌日になれば秀吉が略奪禁止令を出すことを恐れた兵士たちが、夜のうちに放火略奪を行い、その火が燃え広がったために秀吉も宿舎から逃げ出して山の上で夜を明かすことになったと述べる(以上いずれも『戦国合戦大事典』P300-301より)。
^ 根来寺同様、一般的には秀吉による焼き討ちとされている。しかし宇野主水(顕如側近)の日記によると秀吉の軍勢が来る前に少人数が放火して「自滅」したとあるので、粉河寺側による自焼と解するべきという意見(『戦国合戦大事典』P303)もある。
^ 土橋平丞は4月4日、土佐から戻って降伏した。
^ 『貝塚御座所日記』(『宇野主水日記』)より。この知らせは24日昼に鷺森から貝塚に届いた(『中世終焉』P150)。
^ 焼けた地域と焼けなかった地域で、雑賀荘の抗戦派と帰順派のおおよその地域的な色分けができる(『戦国鉄砲・傭兵隊』P205)。
^ 『貝塚御座所日記』より(『中世終焉』P150、原文カタカナ)。
^ 『玉置覚書』では紀州奥郡で秀吉に味方したのは前記の三氏のみだったのに対し、湯河氏に同心して抵抗したのは三十六氏に上ったとする(『高山公実録』P39)。
^ 『玉置覚書』によると玉置勢が湯河氏の所領である小松原(現御坊市)に放火したのを皮切りに、3月21日湯河勢八千と玉置勢千六百が坂の瀬において対戦し、玉置勢は善戦したが83人が討死して敗退し、手取城に籠城した。三日三夜攻防が続いた所に仙石秀久・小西行長が数百艘の兵船と大軍を率いて押し寄せたため、湯河勢は山中に退いた(『高山公実録』P39-40)。一方『田辺市誌』では手取城は落城して玉置直和も殺されたとする(『戦国合戦大事典』P320)。
^ 鳥屋城攻略に当たって、『武徳編年集成』によると白樫氏が攻撃に参加した。また『星田家所蔵文書』によると神保春茂は在城していたが秀吉に内通し、城内の抗戦派を暗殺して開城に導いた。また守城側には根来衆が参加していた(『戦国合戦大事典』P317-318)。根来寺は戦国時代を通じて畠山氏の軍事動員に応じている(久米田の戦い、教興寺の戦い、野田城・福島城の戦いなど参照)。
^ 岩室城の落城日時は不明である。
^ 『戦国合戦大事典』P329より。
^ 根来寺への使者を務めたことから(「和泉の戦い」の項参照)、応其と秀吉の間には紀州攻め実行以前からつながりがあったことが推測される(『木食応其』P190)。
^ 当時、太田城水攻めの最中だった。
^ 天正14年(1586年)7月21日、秀吉は応其の功績を称え、「高野の木食と存ずべからず。木食が高野と存ずべき」と述べたと応其自身は記している。いずれにせよ、この交渉によって秀吉は応其を信任し、重用するようになる(『僧兵の歴史』P289、294及び『木食応其』P175)。
^ 応其の没後は寺領に編入された。
^ 五千人の内訳について、『太田水責記』では「黒田喜内を始として千余人、雑兵児女共に凡五千人(原文カタカナ)」(『中世終焉』P166)、『根来寺焼討太田責細記』では「軍勢五千余騎」(同P172)、『太田城由来并郷士由緒之事』では「黒田喜内を始千余人、其外百姓の妻子共都合五千人」(同P177)とする。秀吉側の史料では『玉置覚書』が「一千人計り」としている(『高山公実録』P39)。
^ 『太田水責記』では小雑賀・中津の二城、『根来寺焼討太田責細記』では雑賀・吹上・中津の三城を挙げている。『イエズス会日本年報』も城名は挙げていないが二城が抵抗し、十四日間(『日本史』では四日間)足止めされたと記している(『戦国鉄砲・傭兵隊』P207)。
^ 当時小雑賀にそれに該当する城はなく、弥勒寺山城のことではないかと推測される(『戦国鉄砲・傭兵隊』P188)。
^ 『中世終焉』所収の北野隆亮『考古学から見た太田城跡』より。太田城跡とされる遺跡からは大量の土器・陶磁器が出土しており、中世を通じて恒常的に生活・消費活動が行われていたと考えられる。また瓦も頻繁に出土しており、寺院を含む相当数の瓦葺き建物が存在したと推測される。
^ フロイスは城内に米二十万俵以上が備蓄されていたと述べている(『中世終焉』p155)。
^ 『戦国合戦大事典』P311より。増田長盛は兵糧奉行として、兵庫・尼崎などから紀伊湊(紀ノ川河口)への兵糧輸送の指揮を執っている(『和歌山県史』P575)。
^ 太田側の資料では、日前宮から白鷺が飛来するや堤が崩れた(『根来寺焼討太田責細記』)、森から現れた蛇が水面を渡り、泳ぎ着いた場所の堤が切れた(『紀伊国名草郡太田総光寺中古縁起』)などと「神威」の様子を表現している(いずれも『中世終焉』史料編所収)。
^ 秀吉は太田城水攻めの様子を彼らに見せることで、間接的に徳川家康に自分の力を見せつけようとしたとも考えられる。
^ 4月5日付の生駒氏宛て書状では「二三日之中」、同13日付丹羽長秀宛て書状では「五三日中」には落とせると書いている(『中世終焉』P143、P145)。
^ 『イエズス会日本年報』より。
^ 磔にされた人数は『中家文書』では23人、『イエズス会日本年報』では18人、『日本史』では28人とする(『戦国合戦大事典』P313、『中世終焉』史料編より)。
^ 『中世終焉』P137及び『荘園の世界』上巻P282より。
^ 『荘園の世界』下巻P152より。
^ この項における考察は、特記するものを除き『中世終焉』所収の弓倉弘年『太田城水攻めの歴史学的考察』に基づく。
^ 『湯川記』などによると、天正14年2月、直春と山本康忠は本領安堵の確認のために大和郡山城に赴いて羽柴秀長に面会した。しかし対面後もそのまま旅館に留め置かれ、7月16日に至って毒殺されたとする(『戦国合戦大事典』P328)。
^ 『渡部家文書』によると直春は秀長によって五千石を安堵されたが、翌14年4月23日に病死したとする。また直春が本当に毒殺されたのなら、湯河一族がその後も豊臣氏や藤堂氏に多数仕えていることの説明がつかない(『戦国合戦大事典』P328-329)。
^ 山本康忠の最期については諸説ある。武家家伝_紀伊山本氏では湯河直春と共に大和郡山で毒殺されたとしている。『紀伊続風土記』『湯川実記』では秀長との会見後浴室で槍に突かれて殺されたとされる(『日本城郭大系』10巻P541)。一方『高山公実録』では藤堂高虎が山本主従253人を山中から誘い出して騙し討ちにしたと述べている(P51-52)。『多門院日記』では山本氏は天正14年9月頃まで抗戦を続けており、その後投降したが11月頃までに処刑されたとする(『戦国合戦大事典』P334-335)。
^ 武家家伝_玉置氏より。これについて、秀長から領地の高を問われた際に旧高で答えたためにその分の知行しか与えられなかったという逸話がある(『戦国合戦大事典』P321)。一方で、天正15年以降の検地によって、名目の知行は同一ながら実質は三分の一に所領を減らされたとも伝えられる(『岩波講座日本通史』11巻P123)。玉置直和は失望して家督を子の永直に譲り、高野山に出家したという。
^ 紀州攻め以前の熊野は、隣接地域への侵攻を繰り返し勢力を拡大する堀内氏に対し、高河原・小山・色川氏らが共同で抵抗するという構図だった。『風雲戦国史』(外部リンク参照)各氏の項より。
^ この節の考察は『寺社勢力の中世』『日本の中世寺院』に基づく。
^ この節の考察は『秀吉の天下統一戦争』『岩波講座日本通史』11巻及び同『第10巻 中世4』(岩波書店、1994年) ISBN 4000105604に基づく。
^ この節の考察は、『秀吉の天下統一戦争』『寺社勢力の中世』に基づく。
^ 『中世終焉』冒頭の海津一朗『「秀吉の平和」と現代』及びP138より。

2009年01月20日

科学者(かがくしゃ、scientist)

もともと自然を対象とした知の探求はラテン語philosophia naturalis、英natural philosophy「自然哲学」と呼ばれ、それに携わる人々は1800年ごろでもnatural philosopher「自然哲学者」等と呼ばれていた。 だが、philosophyの名で呼ばれていた知識一般の中から、独自の性質を持つ知が生まれたと認知され、その知を呼ぶのにラテン語scientia、英scienceの名称が用いられるようになったことや、その知を探求する専門家集団が自らの存在を他の集団と区別して語り始めたことを反映して、1833年にウィリアム・ヒューウェルがscientiaから派生させる形でscientistという語を造語、scienceに携わる人々をscientistサイエンティストと呼ぶことを提案した。それが定着し現在に至っている。

科学者の歴史
遡れば古代ギリシャや古代ローマ等においても自然に関する探求(=自然哲学philosophia naturalis)は行われていた。だが当時の哲学の最重要課題と言えば、人間の生き方や集団のあり方に関する倫理的な思索であり、自然哲学はあくまでその哲学体系のごく一部という位置づけであり、自然哲学だけが単独で行われるということは少なかった。したがって自然哲学に携わる哲学者はどうしても脇役的な存在となり、社会的に重視されることはほとんどなかった。

16-17世紀、ヨーロッパで科学革命と呼ばれる近代科学成立の動きがあったことや、自然哲学研究のための学会やアカデミーが成立し、そこに集った人々が様々な活動をしたことで、初めて自然哲学者には、他の哲学者とは何かしら異なった役割があることが理解されるようになった。だが、その科学革命の後でも自然哲学者たちは自然哲学そのもので収入を得ていたわけではなく、他に生計の基盤があった。例えば、元々広大な領地を持つ貴族の生まれであったり、大商人であったり、聖職者等としての生活基盤を持っていたりしており、つまり現在で言うところのアマチュア・サイエンティストであり、彼らにとって自然哲学は知的好奇心を満たす趣味としての性質を持っていた。

19世紀に入ると、自然哲学ないし科学の高度化とともに、大学等の教育機関に科学の教育のための講座・コースが設けられ正規の教育体系として扱われるようになり、そのコースで指導教官の下、体系的に科学を習得した若者が生み出されるにようになった。また、研究所も設置されるようになり、彼らの働く場所が出現した。このようにして科学者は専門的職業のひとつとして確立し、それを表すかのようにヒューウェルによりサイエンティストという名称の使用が提唱されたのである。

現代の科学者のほとんどは、18世紀までのアマチュア・サイエンティストのように独りで趣味的に自然を探求しているのではなく、大学あるいは何らかの研究機関と雇用契約を結び、給料を支払われ、研究設備の使用を許可され、研究費を割り当てられている。

年の科学者の共同体と競争原理
現代の科学者は、大きな科学共同体の中で生かされているような面がある。各人は専門化された学会に所属したり、学術誌等を講読することで他の科学者の研究により明らかになった新しい科学的知識を得ることができる。また、科学者は学会や学術誌で研究成果を発表することで、他の科学者からの評価を受ける必要がある。

それらの場で研究成果により高い評価を得た者は、次第に優秀な科学者と認知されるようになり、それに伴い高い地位、潤沢な研究費、助手、社会からの賞賛などが結果として与えられることが多い。だがその逆に研究成果を示すことができない者は低い評価が与えられ、研究費が削られ、社会的にも次第に不本意な状況に置かれることが多い。

研究成果の評価の基準のひとつとして、研究成果に新しい科学的発見が含まれているかどうか、という点がある。これを別の角度から見れば、同じ内容の研究をし同程度に努力していても、何かを先に発見した者、つまりpriorityプライオリティ(先取権)を確保した者が高く評価され、遅れて発見したとされる者はたとえ独自に発見したとしても大抵の場合評価されないという原理が働いていることも意味する。例えばノーベル賞などでも先取権を持つ者に賞と賞金が授与される。このような原理を背景として、先取権を巡って科学者(のグループ)同士で激しい争いとなることがある。

この競争原理は、一方で科学知識の進歩を促進してきたという効果が認められている。他方、科学者に対しては他者に先駆けて研究成果を出さなければならないという心理的な圧力を感じさせることで、科学者による様々な不正行為や病理的行動を生み出す原因ともなっている。

科学者による不正行為

記の構図の中で心理的に追い詰められた科学者の一部が起こす一連の病理的な行動はpublish or perish syndrome「発表するか死か 症候群」などと呼ばれることがある。

科学者の一部には、功を焦るあまりに不正行為を行う者がいる。不正行為の内容としては、実験データの改ざん・捏造、アイディアの盗用、論文の盗用、試料の窃盗、実験データ記録媒体の窃盗などがある。このような不正行為は、内容によっては科学界を揺るがす事件となったり、さらにはマスコミを通じて広く一般の人々にも知られることもある。

ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

また論文の成立に何ら直接貢献していない者が、ただ研究室の責任者の立場にいるというだけで論文の共同執筆者として名を連ねるという不正行為がある。このように立場の強い者が陰に陽に政治的影響力を行使して名を連ねさせる場合もあれば、逆に論文執筆者側が、誰かから何らかの利益が供与されることを期待して共同執筆者として名を表示する機会を提供している場合もある。また同一グループ内の複数の科学者が共犯的に相互の論文の共同執筆者として名を連ね、互いの業績数を水増しするようなことも行われることがある。これらの共同執筆者に関わる不正行為は科学者の間ではその不正な性質を隠蔽する形でhonorary authorship「名誉のオーサーシップ」やgift authorship「ギフトオーサーシップ」などと呼ばれることがある、が名称は何であれ不正行為には変わりないというのが公的機関の公式見解である。

例えば各省庁や関連の公的機関に対して提出する研究費申請書類に上記のような不正を利用し、それにより支給された研究費を使った場合などは、もはや科学という学問内部の規範の問題では済まず、公文書偽造および公金横領という重大な違法行為、明らかな犯罪行為であるので、そのようなことを行った者は逮捕・処罰される可能性がある。

科学者による不正行為の一例として、「ファン・ウソク」の項が参照可。

科学者と行為責任
現代では科学と技術が軍事、政治、社会、個人生活にまで及ぼす影響が大きく、そして深刻になっている。例えば核兵器の開発により、第二次世界大戦中に数十万人が命を落としただけでなく(原爆の項参照)、その後の冷戦時代に一歩誤れば人類が滅亡しかねない状況も起きた。そのため、科学者の個人としての活動であれ、集団としての活動であれ、その活動の行為責任・社会的責任を問う声が、科学者自身からも科学者以外の人々からも発せられ、広く議論となった。このような議論を踏まえ、1980年に日本の科学者達は「科学者憲章」を発表した。

この憲章の後も、科学者の社会的責任・行為責任への人々の関心は高く、科学者の活動のあり方は今後も問われ続けることであろう。

科学者とエンジニア
科学者が基礎的な研究を行う傾向があるのに対して、エンジニアのほうが概して時間的に限定された中で具体的な成果を出す活動を行っている傾向があると、大まかに区別することは可能だが、科学者とされる人が極めてエンジニア的な活動を行っていることもあるし、逆にエンジニアとされる人が高度に科学的な発見を学会等で公表することもあり、常に境界がはっきりとあるわけではない。

現代において、科学が人々から賞賛されているのは、必ずしも科学者と呼ばれる人々の活動が評価されているからではなく、エンジニア達が行っている活動、すなわち人々の具体的な要望や組織の要求事項を理解しようとする努力を惜しまず、その要望に応えて成果を制限時間内に着実に出す活動が、個人生活や企業活動の中で大いに評価・賞賛されていて、その波及効果で科学者全体の評価も高められているという側面があることも見逃してはならないだろう。